私が使う前提として、幾つかの区分別けを紹介してみます。
日本語として音に出すと 「MIRU・ミル」です。。
イデア論的に言えば、「見る」「見られる」モノです。
日本語では ”区分けして見る” 必要があるモノです。
能動的な態度に必要なモノの見方にも繋がります。。
これは、「モノを物語にする」 為の、過程での考え方に同じです。
大前提としては、「同異義語」 ”差別” の尺度の違いを認識する!!って作業が必要になります。
物事を考えるに当たっての 分母数ってのがそれに当たります <(`^´)>
つまり、、 差別・区別・分別 の違いです。
日本人ってのはとかく・・円グラフ的に、
「含まれて居る・・」状態からの区別でして・・
”ありき” の状態の中での区分けってのは、分別の中でのタグ付けに同じであり、
本当の意味での ”差別” とは違うんだと思うんですね・・"(-""-)"
「御旗のもとに・・」 では 真の差別は 為らない! んだと思います。
真の差別って事を発するのには、
自らが積極的にその範囲を限定付ける勇気と、エネルギーってのが必要となります!!
”知る事” っていう → 分母数の増大!! ってのが必要条件になります。
物事を見る姿・・ってのもまた、これに関連するものです。
「モノの考え方」 ってのもまた ”同じ” です。。
「見える」「見られる」モノってのは、私が見ようが見まいが、
そこには”在る”モノなんですね。
だから、そこに対して
私が・・ という 一人称単数として臨む態度が必要なんです<(`^´)>
ここに、私が使う ”見る” の使い分けを表記します。
あくまでも、私が思うに・・ という限定付きですが・・(^^ゞ
観る:広範囲的に パぁ~っと ”見る” 事。
診る:特化したその部分だけを ジ~ぃっと ”見る” 事。
特化するために ”診る” ・・
始点を自発点とする・・という意味では、視るに等しい。
(視るために診る = 診るために視る)
つまり・・
「全体を観て、診て、視る!」 のである。
全体を見渡すように パぁ~っと ”観て” み、
おっ!そこか! と、ターゲットを定める為に ”診て” みる。
そして、その決まった部位を顕微鏡のプレパラートに乗せてじっくりと視る。
・・かの姿です。
逆説的に言えば、器械が故障した時に、
故障した原因である部位を定める(差別化)する為にはまず、全体の構造体を把握する必要があり、
それらが、個々として全体に及ぼす役割分担としての位置を区別する必要があるんですね。。
そして、その原因を決めるのは 消去法によってなされるんですね。。。
他の選択肢を消して行って決定付ける!! 論法です ( `ー´)ノ
化学・科学の実験と同じです。
「観る」とは 直感的・直情的なモノであり、
視る・診るとは、その中に在るアルゴリズム的なモノを捉えようとする、積極的な姿である! と思うんです。
もちろん それらは 「全てそこに含まれて居る」からこそ、
観るために診るのであり、診るために観る必要があるんだと思います。
人間ってのは、
コンピュータに例えると・・
動画にすれば、全体像を把握する事が出来ます!!
その箇所を止めて、ズームアップすれば 鮮明な画像が得られます!!
が、しかし・・ 同じ容量では、この二つは同時に出来ないんです!!
人間も同じです。
量子物理学の定義と同じです。
あとは 切り口・入口の違いです。。
気になる鮮明な画像が 一体、どこの場面なのか?! を知る為に 動画を見るのか?
動画の中で、気になる?! 場所を止めて 静止画としてズームアップして見るのか?
自然界では それらは、全て含まれる ”フィードバック” の渦中に在りますから・・
だからこそ 気付いたモノに対しての、モノの見方として、
アングルチェンジってのが必要になるんです!!
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