top of page
  • 執筆者の写真石川経清

対話が誘う文理融合の世界 に参加しての感想

先日参加したセミナーの内、4人のパネラーの中で、最初の講演者・三村氏の講演内容が大変良かったので、その感想を、

その本人に、メールで送ったモノの一部を ここに抜粋して書き置きます。

これも モノの考え方の一つです。。


「ここ」 と 「そこ」 と 「あそこ」 の ”同格化” の極意です。



      *********************



「インテリジェンスは知性のはたらきなのか」という演題に付きまして、 三村さんのは 数式を使わずにお話しされました。 ここが先ず私にとって重要なポイントでした。 それは 「対話」というのは 相手に伝わる・・というのが大前提として、初めて成り立つもので、 私が思う→ という発言にとっては、数字も言葉も 記号の一部に過ぎず、 ”置き換える”と言う意味では同じであって、 それが ”自分の言葉”であれば、数字も言葉も”同じ”である・・


が故に 自分の言葉で、お話しされた、三村さんのお話しは 返って、私に”同じ”モノとして伝わりました。 大変失礼な話しですが、他の方々は その発する言葉に、メッセージ性が弱かったんです。。

一方的な ”話し”=Tellと 相手に投げかける ”話し”=Sujest とでは違う、という事です。 もちろん三村さんのは後者であった訳でして、 だから、私の琴線に触れる事になったって寸法です。 (なので ここに 今度は私からの・・対話として書き置きさせて頂いてる訳なんです。)


三村さんに関しましては、よく”遊ぶ”方だな~、ってのが私の直感です。 この場合の”遊ぶ”とは、物事を見た時に、 「なんだろう?」より「なにをしようとしてるんだろう?」と、流動的なモノの一部として観る様の事を言い、 次へつながる 始発点として、そのモノを見ようとする姿の者の事を言います。 帰着点が始発点に→ 縄跳びの時の着地点と同じです。

着地は 次のジャンプへの準備を意味する → って事です。


「百聞は一見に如かず」という例え話に置き換えた時、その実際の事実を見た時の感想・・ 「なぁ~んだ」ではなく、「そんな方法もあったのか?!」という感想を持つ者に”同じ” です。 常に 次へ興味を持ち続ける! という意味です。 「 ?=興味の対象物 → !=だから(解き明かされた) 」  (?→!→?→!・・)=そこから得られる”解”を、常に、過程の一部であり、渦中として捉える姿と”同じ”です。


私がこの様に ”同じ”を多用するのは ”同じ”で無い事を、自らが解っているからであって、 沢山の同じを使い重ねないと その”違い”を伝える事が出来ないからです。

その点、”数字” ってのは 人類がが発明した 最も有効かつ 普遍的な最強ツール(エンコード)だと思います。 そして ”同じ”をイコール(=)へと仕立て上げる様が、その必要が在った!から と解きます。 相手に対して ”同じ”を伝える為に・・ 哲学を語る上で 対偶論を構築する上で、代数幾何学が生まれたのは ある種 それが必要だったって事でしょう。

究極の ”同格化” です。。

 

平易な、日常的な話しに例えると 「明日のおやつの時間に・・」ではなくて「明日の午後3時にお会いしましょう」ってな感じで・・

完全一致(=) を意味します。


私は普段、”音楽”をツールとして使ってるのですが、記譜法の中にも数字は多分に含まれてまして、 音楽とは 相手に対して より良く伝えるために、 言葉というメッセージに 色(コード)を付け、テンポ(♩=100)を設定し、語気の強弱(f・p)を与えるモノでして、 言葉よりも よりエンコードされたモノだと思います。 本人がしゃべってるのに より近いモノだと思います。 そして 数字は 音楽よりも更に、それを超える、より再現性の高い媒体物だと思います。


という事は、数字ってのは 最小公倍数の結果としての→最大公約数であって、 そこの中には より多くの言葉という成分が含まれている訳でして、  つまり、数字に対して、訓読みが出来なければ、その数字は、ただの固形物として無機物化してしまうんだ・・と思います。


デジタル的な・今の世の中の風潮として 学べば学ぶほど 「同じ顔の人間が出来てしまう」「~っぽい人間になってしまう」


この辺は 日本人が日本語でモノを考える上で 日本語ってモノ自体にジレンマが含まれてしまってる訳でして、 つまり、古代に 話し言葉っていう音を 漢字に当てはめて 形としての文字へと昇華したのですが、 その 音を当てはめられた漢字自体にも 表意文字としての磁気を帯びたモノであったが為、 文字が より多くの最小公倍数を含んだものになってしまったんだと思います。

同音異義語、異名同音・・ 等が多いのが その例えられた証拠です。。


「いいよ~」が ♯(シャープ)すれば:語尾が上がれば、それは同意を示す言葉になり、 語尾が下がれば:♭(フラット)それは、 拒否を示す言葉になるのが一例です。 少々、自論が過ぎて申し訳ありません。。


書き言葉と、読み言葉は違う!! って事です。


 

・・が、申し訳ついでに、先日の講演に於ける 三村さんの”Sujest”に対しての 私の”応え”をお聞き頂くべく、 もう少しだけ お付き合いください。


「人工知能が いつかは人間より賢くなるのでは?」

:私は、”賢い” と ”頭がいい” の違いだと思います。 何故なら、人は その ”過程” を楽しむことが出来るからです。 「急がば、廻れ」を自らが選択出来る! って言葉に置き換えられます。

”解” への最短距離だけでは、その過程を楽しむことが出来ない!


例えば、新幹線・飛行機で現地へ パッと!! 行ってしまうのと・・

鈍行列車に揺られて ガタガタ・・と 行くのでは、

その旅情が違う!! って事です。


これもまた 過程の問題か・・と思われる例を・・


目の前のおでんを食べる時に それが口に運ばれて 喉元を過ぎ 胃に入る過程に於いて、 どこまで? おでんを感じて楽しめるのか? と同じです。


「食べる」 という事が エネルギー摂取という命題の為だけであれば、 栄養剤・宇宙食の様に、ただの 固形食・流動食で 事足りる・・訳でして・・


その過程・・が、人によって違う! って事が、楽しいんだと思います。


”賢い”という意味では 人工知能は人間より賢くなる! と思います。

物事を、要領よく解決出来る”賢い”とは、解を得る為のコンピュータ的なもので、 物事を最短で解決する事であって、 解決する為に 常にその過程の中に居る ”人間” とは違うんだと思います。

解が得られなかった時に、更に次の限定的命題を付け、基準値をセットアップし直す事が出来る、 演繹法と帰納法(~たら、~れば、)を持ち合わせている=人類に同じです。

過去の事実(だから・・)を 未来の ”だから~” へと→  同音異義語へと昇華させる事が出来る!! ってのと同じです。

ですから、賢いタイプの人ってのは より賢い人に取って代わられる事でしょうし、 AIが進むことによって その場は失われて行く事でしょう。


「粘菌について・・迷路を解くに、最終的に一本の太く短い線(2点間の最短経路)ネットワークを形成するアメーバに知性があるのでは?」


:大変面白い議題だと思いました。 それに対して私は、「生きる」と「活きる」の違いだと思いました。 これも、同音異義語の一例ですが・・ アメーバ達のは まさに! 生きるか死ぬか の瀬戸際での行動の結果であって、 自然界で言う所の 弱肉強食という世界であって、 その結果としての・・ 生き残った者が為したのが 2点間の最短経路=ネットワークの形成 なので在って、


人間ってのは 自然界の鉄則:弱肉強食ってのを 弱者救済・・という 云わば 自然界の法則から言えば、反・自然主義=”社会” を構築し、その上で成り立ってるって訳でして、


つまり、生きるか死ぬか? という状況下に置かれて無い限り

:生きる事を保証されている上で・・


という前提の元では、 私は、生きる→より良く生きる→”活きる” と解します。


それには 余談ですが、人・一人一人が、社会に対して 請け負う態度・・ 契約する事、自らが位置付ける事が大前提となります。


2つの設問に付いて、まとめると、 ”尺度の違い” に有る んだと思います。 見せ掛け上、人間の尺度で見たこの世界では 人間が支配して居るように見えますが・・ 自然界の中ではフィードバックする その ほんの一部に過ぎない・・と解するべきだと思います。


私は、座右の銘 マンデルブロ集合 Z=Z2+C ってのに 随分と救われてきました。 特に閉塞感にさいなまれた時には これは、フィードバックの一部に過ぎない・・という解放感によって・・


:モノの考え方によって。。 決して”同じ”が無い・・絶対条件の基、 多くの同じを作り出す事によって、相手に伝わる確率を上げ、 まだ体験した事の無い事柄に対しても 思い遣る事が出来る・・ 過去の歴史(彼の歴史:History)を My Story(だから) へと昇華させる事が出来る。

この場合、過去の歴史とは 地点と時点の接点=事実・史実 の順系列の積み重ね・・




「たら・れば」ではなく、「だから」がそこには在った訳でして、 その 「だから」を 我が事に置き換えて 未来への「だから」へと昇華する事を意味します。

ただし、そこには、 手元に在る(自分自身の実体験が基になる) 私自身の ”ここ” を ”そこ” へと I(イツ)にする作業・・

先ず、「ここ」=「そこ」 に、置き換えを以て ”同じ” モノへと為し、 そうする事によって、「そこ」=「あそこ」 へと置き換える。

前提としては、

あくまでも、「ここ」は自分の中に在るべきで:始発点は自発点である必要が在り、 位置関係として 「そこ」は 手前にあり、「あそこ」は 遠くに有るものです。



「ここ」 → 「そこ」 → 「あそこ」 という位置関係です。


逆に言えば ”ここ” を知る為に ・・


「あそこ」 → 「そこ」 → 「ここ」 という位置関係も成り立ちます。


フィードバックするからです!!


「己を知るには 相手を知るべし!!」 と同じです。

そのモノを知るには他を以て為す! と同じです。


自分が評価している→ 他人からの→ 自分への評価を以てして・・

自分の位置を確かめる!! ってのと同じです。。



そうする事によって モノを例える時の尺度・・  「東京ドーム3個分」でピンと来ない場合に 「コップ3杯分」 とも置き換えられるモノの考え方、 例え方= インプットとアウトプット としての、例えられる種類が増えるってことです。


これは、「ここ」と「そこ」と「あそこ」を 同格化する事を意味します。 そうする事:底辺の分母数の増大化によって 相手に伝える事が出来る:その確率を上げる事が出来るって寸法です。


しかるに・・

今のように、デジタル化が進んで、便利になってしまった世の中では、「そこ」と「あそこ」を簡単に切り取って、操作出来てしまうが為に、 「そこ」と「あそこ」だけを 便利に張り合わせているだけの  「・・っぽい人間」、「言葉が上滑りしてしまう人間」 ってのが増えて来てる傾向にあるように思えます。


そこに、 最も大切な 「ここ」=「私」 が欠落してるんです!!


つまり、自分の言葉・・ってのが無い人間が増えて来てる・・って事です。 危惧すべき現象です。


話しは少し逸れますが、「過程を楽しめる」 ってのは、パソコン上で、ワンクリックしてレコードを買ってしまうのではなく、

当日の朝から、レコードが買える! と、そわそわした気分で 風呂に入り、おめかしして出掛け、レコード店でお目当てのレコードを買う、 という過程=物語=詩 が楽しいのであって、、 と私は思うんです。


そうした 過程を含めた ”レコードを買う” っていう経験のある人が (その事を知ってる人が)便利なツールとして パソコン上で ワンクリックして他のレコードを買うのと、


最初から・・(便利になったこの世の中で、レコード店へわざわざ買いに行く・・という過程を経験した事が無い)若い人が 

パソコン上で、ワンクリックで、便利に物を手に入れるのとでは 


同じレコードでも ”同じ” では無い、って事です。

レコードに含まれている解(だから・・という過程)が違うからです。





「ここ」と「そこ」と「あそこ」に関しまして、それを痛感させられた実体験を挙げさせて下さい。

昨年、旅行で萩へ行った時、吉田松陰氏の生家に行ったんです。 山の中腹に その生家跡はありました。

そして そこから眺めた眼下の景色の中に 僅か数キロの川と川に挟まれた三角州地帯:指月城下町がポツンとあって、 そこが 萩藩の政治の中枢地だったんですが、ホントに 直ぐそこ:政治の中枢地が 家からハッキリと見て取れるのです。

彼はその後、実際にそこに降りて 中枢を担ったのですが、、


幼少期に「ここ」から見てた「そこ」に行った時、

「そこ」が 彼の中の「ここ」に在ったんだと思うんです。


そんな彼が さらにその後 日本国を相手に、世界を相手に、と行った時に、 幼少期に実際に自分の目で見た 「ここ」と「そこ」を同格化して「あそこ」に置き換えられた事を想像するに難くはありませんでした。 尺度に於ける 置換法・尺貫法が為り易かったんだ!! ・・と私は思いました。


音楽演奏家・・としての私の態度にはそれに似た所がありまして・・


リハーサルが終わった後、シーンとした会場で、

本番前、 誰も居ない観客席から舞台を眺める・・ ってのがそれです (^^♪


こちら側から 今から、これから自分が行くであろう・・ 

”そこ” への 自然 ”投影”です。


シーンと静まり返った会場の客席で独り・・ 

未だ、演奏していないのに、頭の中では 既に然り・・ 


舞台上で演奏してる 「自分の様(さま)」 を頭の中で思い浮かべてるんです (^^♪


これがまた・・ なんと! 楽しい事か!!  です。。


但し、これは 準備が出来ていて、あとは そこで演奏するだけ!!

の状態である事が”絶対条件”で、


不安を残している場合には、逆説的に・・


”そこ” で楽しめるように、心の持ちようをコントロール必要があります。


これを、”必要条件”と解きます!!


”前提” の ”置き換え” ってのを 利用した、モノの考え方の一つです。

これも フィードバックの応用です。。

”いい加減” にする為の・・ <(`^´)>


やらなくてもわかる!! = 良い状態の時なら問題ないのですが、


やってみるまでわからない?! → やってみればわかる!!

って ピンチな時に、実際にやる前に分かる方法ってのが、

逆説的:仮定法 ってやつです。。 前提の置き換え ってのと同じです。


これにつきましては 実例を挙げた方が より分かりやすいのですが、

多項を要しますし、、 ここで述べていること自体が ”それ” なんです \(-o-)/ 


色々な ”同じ” の列挙であり、モノの考え方・自体がそれに当たります。。




ちなみにこのような経験をしてしまった私は、旅から帰って来て 謎の高熱(39度超が1週間続き、その後も平熱に回復するのに1か月掛かりました) を発症し、医者にかかっても原因不明で、結局 「吉田松陰病」という名前を付けられました・・ 科学(数値)では化学(生物的回復)出来ませんでした・・の一例です。


そのおかげで?! 西田幾多郎氏の 内と外との境界線を実体験する事が出来ました。 その境は ”動脈が静脈に変わる所” でした。

自分の中に在る 分岐点です。。



これもまた 「化学を科学する!!」 ⇔ 「科学を化学する!!」


一つの 例えられた事実 なんです。





閲覧数:8回0件のコメント

最新記事

すべて表示
bottom of page