モノを考える時に、
また、解決させる時に必要なモノ・・
それが ”前提” なんです!! <(`^´)>
自らが積極的に”差別”を行う時にも これが必要なんです。
前提が設定される・・その場面に於いての・・ ”限定的命題” であり、
”軸” の構築と同じです。
・・でないと、
そこから 苦労して、せっかく得られた”正解”が、次に繋がらないからです・・ (-_-)
無機物化し、目的化してしまうからです・・
だから 自らが積極的に限定付ける!! っていう能動的態度が要るんです。
そうする事によってのみ、不正解が 次へと繋がる・・
正の解へと昇華する確率を上げるんです。
それは、反省出来る事を意味し、
俗に言う 「トライ&エラー」 って事です。
反省点を見付ける為に・・ 反省する為に・・
負の解を、正の解に・・
エジソンの言う
「私は失敗した事が無い! ただ、何万通りの間違った方法を見付けただけだ!!」
ってのと同じです。
前提を立ち上げるのには、
軸として、 「同格」 であるべきなんです!!!
これが、日本人にとっては とても難題なんです・・ (>_<)
全てがそこに含まれてしまっているからこそ、見極める為には、
個々のモノを無機物的に抽出する必要があるのに・・
イエス・ノー がハッキリ言えない日本語のジレンマと言えば、そうなんですけど・・
日本人ってのは、とかく・・ 「あるか、ないか、」 で物事を捉える節があって、
これが主原因であるような気がするんです "(-""-)"
”ある” は動詞で、
”ない” は形容詞、、
この時点で既に2つは同格では無い事が示されており、
しかも、、 ”ある” も ”ない” も、状態を現しているだけの事であって、
手の内から離れて 即物化されてない事を意味するんです。
だとすれば、
私は、両者が、どうせ直情的な状態を現すモノなのであれば、
同じ形容詞: ”あり” か ”なし” かで捉えるべき!! だと思うんです<(`^´)>
また 同格であっても (設定場面に拠るのですが・・)
”犬” と ”桜” を比較するのはナンセンスですけどね・・(^^ゞ
何故なら そこから得られた”解”が
(・・と言うか、解を得る為に前提を立ち上げるのですが・・)
無機物化してしまい、前後に与える影響が何ら無くなるからです。
それは、過去の 哲学に於ける過程の中にもあったんです。。
モノの”真の姿”を描写するための壮大な戦いがそこには在ったって訳です。
「集合論・モデル理論・再帰理論・証明論」 であり、
対偶論の発生であり、必要十分条件への、吟味・再構築 です。
「AならばBである」 の証明であり、
「AはBであるための十分条件であり BはAであるための必要条件である」
というモノの考え方・・
A⇔Bが真であるとき、AはBであるための必要十分条件であり、
AとBは 同値である! と言う。
そのモノを他を以て証明(例える)時に於いて、
数学上の証明に於いては、A→Bが真であるなれば、
対偶は一致するんですね。。
つまり、Aが真である事を証明するのには、対偶を証明すればいい!! って寸法になるって訳です \(^o^)/
同じ・・について、これは、
「絶対に”同じ”って事は無い」って事を大前提にした、
個々に於ける前提を、基にした事によって得られる”同じ”って事です。
同じ:イコール(=)を作る為に!!
この”同じ”ってのを作のは、”違い”を説明するのにとても必要だったって事であり、
これも 例えられた事実 なんですね。
だからこそ、この:限定された範囲内で!! ってのがとても重要なんです!!!
既に 文字やら数字等の”記号”ってのに置き換えられてるんですから・・"(-""-)"
・・が故に ”位置付け” ってのが大変重要なんです。
”同じ” の重要性については、
人が認識出来るのは、自然現象とは、「フラクタル(自己相似性)」の結果だからなんです。。
同じ様な細胞が無数に集まって 有機物を為した結果・・として 人間が出来上がってるのと同じです。
その通りです! (^^♪
さすがのお見通しです! (^_-)-☆
向こうに見えるは日御碕灯台ですね(^o^)